日本ビール書紀(総社神社の麦酒祭り)
(「地ビールニュース'99 September」掲載 / マスター・イバリュエイター ジャッジ 谷 保廣)
ドイツにビールの守護神ガンブリヌスがあり、日本酒に三輪大明神(奈良県桜井市)や松尾大社(京都市西京区)の御利益が及ぶとするならば、小生のごとき不信心のヤカラとて、敷島のいずこかにビールの神様を求めたい。そんな思いで、去る7月18日、滋賀県甲賀郡水口町牛飼の総社神社を訪れた。
毎年この日、ここでは五穀豊穣と無病息災を祈願して麦酒祭りの神事が執り行われる。その起源は1441年の社殿再建の祝賀にまで遡るという。ビール愛好家の勝手な拡大解釈を許していただければ、われわれはヨハノス・ティデンスらの『和蘭問答』(1724)や川本幸民の『化学新書』(1874)をはるかに越えて、室町時代のこの地に日本の麦酒の発祥を見出すことができるのである。
当日、小生は牛飼区長の山田佐太雄氏と世話役木田与市氏のご案内を得て、麦酒祭りに参加させていただいた。ご両名をはじめとする関係者各位には、部外者による伝統儀式の見学を快く受け入れていただいたことを、この場を借りて心からお礼申しあげたい。
麦酒祭りの構成は、前日17日の「麦酒の醸造」と当日18日の「境内での祭典」に大別される。行事は今年の宮守(みやもり。その年に63歳を迎えた村民)と指南役の昨年の宮守の二名が中心となって進められた。
前半の「麦酒の醸造」は、今日のビール生産になぞらえれば、製麦工程・仕込工程・発酵工程の3段階を踏む。小生はこれには立ち会っていないため、その詳細は服部旦氏の知的興趣に富んだ研究書『民俗学の方法序説〜麦酒祭りの研究』(新典社)に依拠したい。
製麦工程は、17日早朝、飯道山麓の谷川から麦酒用の水を汲み出すことから始まる。これを直ちに社務所に持ち帰り、炊事場にて麦蒸し用の湯を沸かす。麦は大麦を用いる。もとよりこの麦酒祭りが牛飼村の主要な農作物であった大麦(品種は滋賀穂揃)の収穫感謝祭であったことに由来する。この工程では蒸し加減が肝要で、麦が固すぎると麹だけが溶けて麦が残り、また蒸しすぎると麦だけが溶けて麹の固い粒が残る。いずれも飲んだ時の舌触りが悪くなるため注意を要するという。蒸し上がった麦はハンボ(飯びつ)に移し、大シャモジでかき回し、1時間ほどかけて人肌まで冷ます。
次が仕込工程である。畳間に広く模造紙を敷き、この上に製麦工程で準備された蒸し麦と、予めほぐしておいた米麹を空け、十分に両者を混和させる。その後これを仕込桶に入れ、適温(長く手を浸していられる程度)の湯を注いで、時折大シャモジで攪拌する。
さてここから一晩をかけて、発酵工程が続く。夜半頃より桶内に小さな泡が立ち出し、発酵が始まる。翌朝まで桶内の温度を37度に保ち、発酵を促す。酒造りである以上発酵が滞ることも、酒税法上の配慮から発酵が進みすぎることも、憂慮されるという話だ。前述の服部氏の観察のなかに、「蚊帳の中に入った一同は相談の上、発酵の進んだ第一桶と一番遅れている第三桶とをまぜ合わせて第一桶の発酵を抑制する方法をとることに決めた」という一節がある。グーズ・ランビックの手法といえようか。
後半の「境内での祭典」は翌18日午前10時から催された。小雨まじりの空模様が初夏の祭りに涼味を添える。宮司を先頭に、白の浄衣をまとった新旧宮守が続き、参列者一同が拝殿に入ってゆく。山村の一隅に慎ましやかに佇む神社にて、宗教原理的にはたとえばシュメールの都市国家や新バビロニア王国のビール奉納の儀式と変わらぬ祭典が執行されている事実に、小さな民俗学的感動を覚えた。
宮司と新旧宮守の三者が、拝殿から神殿に進み、小桶に納められた本年の麦酒を祭神に捧げる。宮司が祝詞を奏上した後、参列者が順番に二礼・二拍手・一礼の玉串奉呈を行なう。そして締めくくりに、参列者全員に麦酒が振る舞われ、祭典はつつがなく終了した。
小生の残された最大の関心事は、言うまでもなく、麦酒のテイスティングである。赤い漆塗りの盃に注がれた麦酒は、白濁であり、その不透明感は一般の濁り酒を凌ぎ、ヨーグルトを水に溶かした様相であった。アルコール度を1%未満に抑えているところから、酒特有のアロマは稀薄で、わずかにフレーバーの甘さを予感させる程度のものである。そのとおり、フレーバーはほのかな甘味が基調となっており、加えて味のアクセントとして酸味が感じ取られた。山田区長が一言「今年のは、ちょっと酸っぱいでしょ」と評された。決して悪い出来上がりではない。ただ盃に沈澱する麦の穀粒を「食べ切る」のには、多少の難儀を感じた。
小生はここまであえて振り仮名を付さなかったが、当地の麦酒は「ばくしゅ」ではなく、無論「ビール」とも読まない。それは「むぎざけ」である。既述の醸造過程からも明らかなように、一夜造りの麦の甘酒と解するのが最も適当であろう。
麦酒祭りはこの後直会(なおらい)での昼餐に移行する。小生は関係者の皆さんに挨拶し、帰路についた。
いまこの小稿を綴る小生の胸裡では、ビールの定義は寛大に緩められ、あの牛飼の総社神社は〈ビールの神様〉となってしまった。中世ヨーロッパには、ビールの発酵を早めるためにはトチノキの緑の小枝で麦汁をかき回すとよい、との言い伝えがあった。もし日本の地ビール醸造家たちが、この古い西洋の迷信をサカキの小枝に翻案する洒落っ気を持ち合わせているとするならば、小生はそれを、醸造技術がいかに近代化しようともなお残るビール造りのアートの部分に対する彼らの敬意の表現と解したい。
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〈場所〉
JR東海道線の草津駅にて草津線に乗り換え、貴生川駅下車。徒歩10分。ちなみに、近隣に「びわこいいみちビール」、日野町の滋賀農業公園まで足を伸ばせば「近江ブレーメンビア」があり、こちらでは本物のビールを楽しむことができる。