ヨットの夢
(97年8月8日 日本経済新聞 交遊抄/日本地ビール協会会長 小田良司)
日本地ビール協会会長としてよりも、実はヨットの世界での方が名前が売れているかも知れない。英国の伝統レース、アドミラルカップで3艇からなる日本チームの総キャプテンを務め、89年に日本クルーとして初めて準優勝した。この時、1艇の艇長を務めたのが95年のアメリカズカップで活躍した南波誠君だった。
最初の出会いは84年。彼はヨットの帆を扱うメーカーの関西支社長として、訪ねて来た。ぼそぼそと話し、迫力ある人物ではなかった。だが、88年の国内初のヨットのマッチレース、日本カップで印象が一変した。
南波君は優勝に手が届きかけながら、ゴール直前の無風のためレースは中止になってしまった。私も一員だった審判団に彼はすごいけんまくで抗議した。普段の温和な物腰の中に秘めたる闘志を見た。
南波君とは1つの約束を交わした。95年、アメリカズカップに出場する彼を応援するために米サンディエゴのヨットクラブに駆け付けた時のこと。彼は私に関西でもアメリカズカッップに挑戦するクラブを作りましょうと提案してきた。
アメリカズカップは国別ではなくクラブ対抗のレース。挑戦するクラブが国内に1つしかないと、日本艇のレベルが向上しない。私は即座に承諾した。
南波君は今年4月の高知沖のレースで行方不明になってしまった。しかし、私は今約束通り、兵庫県西宮市にチャレンジクラブをつくる計画を進めている。2004年にレースに参加し優勝して杯を持ち帰り、2008年に日本でアメリカズカップ開催を実現する。彼を思い出しながらそんな夢を描いている。